【ちはやふる小倉山杯記念鼎談】楠木早紀・松川英夫・末次由紀1〜競技かるたとの出会い〜
注目かるたと出会ったきっかけ
ー今日は皆様、お時間を取っていただきありがとうございます。特に楠木さんは遠方からこちらまで足を運んでいただきありがとうございます。
ここにいらっしゃる皆さんはもうご存知いただいてるかと思うんですけれども、この鼎談を主催しているちはやふる基金は、漫画家で『ちはやふる』作者の末次由紀さんがかるたに恩返しをしたい、かるたを頑張っている子たちの力になりたいということで立ち上げました。楠木さんにも私達の思いに賛同いただいていると伺い、松川会長のご協力のもと、今日この対談を設定させていただきました。いろんなお話が聞けたら良いなと思っているので、よろしくお願いいたします。それでは、早速お話に移りたいと思います。まずは末次さんが『ちはやふる』というかるた漫画を描かれたきっかけについて教えてください。
末次:私の、講談社の元担当編集者が競技かるたのA級選手だったんです。福井から慶應かるた会に来て講談社に入社したんですけれども、その時に競技かるたの漫画をどなたかに描いてもらうことが夢という志で出版社に入社された経緯があり、それで私に「末次さん、新連載を考えているんだったら競技かるたの漫画はどうですか?」と提案をいただいて。その方も競技かるたが大好きで、面白さを伝えるのに漫画が一番良いんじゃないかという思いがあって漫画家の私にそういう提案をしてくださったと思うんですね。
自分が小さい頃から親しんだものの魅力をまだ伝え切れていない、だからこそ広めたい。それが夢だというのがすごいと思って。私自身も百人一首は好きでしたので、自分の知らない世界が百人一首の歌の向こうにあるんだという予感がしたんですよね。なので、きっとできると思って、勉教してみますとお返事しました。
ーそのときまでかるたを見られたことはなかったのですか?
末次:ニュースでちょっと見るくらいで、五十枚の札を二十五、二十五にわけるというルール自体も知りませんでした。
ー最初の印象はどうでしたか?
末次:すっごくびっくりしました。大変なことだと思いました。ばーんと札を飛ばせることが信じられないです。並べられた札を戻せるとも思ってなかったから。元の位置にみんな迷わず戻していくところが信じられなくて、五十枚並んでるものを壊したら最後だって思っているのに、みんなバンバン壊していくから、そこからまずとんでもない。私の思っているレベルのうーんと向こうで、この競技に深く馴染んでいる人がいるというころにすごくびっくりしました。
ー楠木さんがかるたを始められたきっかけというのはどういったものだったんでしょうか?
楠木:私がかるたをはじめたきっかけは、いとこの担任の先生が、地元大分県中津市ででかるた教室を開いていたことでした。夏休み中、私がいとこの家に預かってもらっていた時期に、いとこがかるた教室に誘われたので、私も付き添いで行くことになったんです。なんで夏なのに「犬もあるけば棒にあたる」のいろはかるたをするんだろうと思いながら行ったのが一番最初でした。
末次:行ったら違うものが出てきた?
楠木:行ったら、絵がなく字ばっかりで。読まれた言葉を探してもないじゃないですか、下の句だと。それにびっくりしたというのが初めての感想でしたね。
ーのめり込まれたきっかけというのは? いつ頃面白さに気づかれたんでしょうか。
楠木:面白さというよりは、最初に大分県の初心者の大会に出場したとき、いとことの決勝戦だったのですが、そこで優勝し、トロフィーををいただいたんですね。その嬉しさと、自分が勝ったことによって両親や祖父母がすごく喜んでくれた嬉しさとがきっかけで。そこからかるたの世界にのめり込んで行きました。
末次:最終的にトロフィーは何個くらいになったんですか?
楠木:最終的には百個近くになりましたね。
ーぜひ松川会長にも伺いたいのですが、会長はどんなきっかけでかるたを始められたんですか?
松川:私はもともと、十代の後半は2輪のレーサーをしていたんです。スピードに憧れがあったんですね。その当時、うちの姉が日本で一番大きいかるた会、東京の白妙会の、女性の三羽烏の一人と呼ばれていたのですが、日本のナンバーワンになる一歩手前のところで長野県にお嫁に行くということになりまして。無念の気持ちがあったらしく弟の私に白羽の矢が立ちました。なんとかかるたを次いで欲しかったらしいんです。それまで私はかるたに興味がなく、正月になると親戚で集まって百人一首の遊びをやる程度だったんですね。ところが姉からそういう風に言われて、お正月にやるあれですかという話で。それで、最初七枚だけ並べて、「村雨」ときたら「むすめふさほせ」を取れば良いんだよ、と教わって。さらに、かるたにはA級、B級、C級の三つの階級があって、A級で一番強くなると名人になれるんだよということも教わりました。
その頃、私は二輪をやっていたんですが、スポンサーがつくと結構良いマシーンが与えられます。ところが私は自費でやってまして、そんなお金持ちでもなかったので結構辛い状況だったんです。その点、かるたっていうのは二輪と違って、みんなが同じ条件でとるんだと。そこにまず惹かれたんですよね。当時の名人に正木さんという方がいたんですが、5年も6年もずっと名人を続けていると聞いて、そんなに長く名人なんだから、次の札のヒントか何か与えられるの? と姉に聞いたら、全くそんなことないと。次の札を察知して取るんだと。我々の二輪の世界より全然フェアなことがすごく気に入って、それで私もやってみようかということになったんです。
結果的にはですね、「むすめふさほせ」を姉さんから教わって2年10ヶ月で名人になったんです。
ー2年10ヶ月ですか!
松川:はい。最初に「むすめふさほせ」を教わって、最後の”あ”まで覚えるまで一ヶ月かかんなかったんですね。あるとき大会に初めて出るということになったんですね。先輩A級選手3人に連れられて、私はたった一人のC級だったんですけども。当時はまだ新幹線さえなかった頃ですから、すごい思いで名古屋に行ったら、先輩たちは三回戦くらいで負けちゃいまして。私はどういうわけか勝ち進んでるんですよね。そして最後の決勝に至っては、今でも覚えてるんですけども、12回くらいお手つきをして2枚勝ったんです。つまり一人で取って一人でお手つきしてるんですよね。そういうようなかるたを取って、初出場、初優勝したんですね。最初のスタートがそんな状況でしたから、これでお手つきしなければもっと簡単に取れるんだなと、取ることよりも取らないことが大事なんだとその時覚えたんですよ、かるたを。それからB級になって、2回か3回目の大会の時に、やっぱり決勝まで行ったんですよね。支部大会だったんですけども、その時の決勝が同じ東京の会の方で、大変ベテランの選手で、やっとの思いで勝って優勝したんですね。それでA級になったわけですよ。その一週間後にA級の大会がありまして、そこへ出たんですね。一週間前はB級として優勝して、その一週間後のA級でもなぜか優勝したんですよ。だからまあ天才というか。負けるのが不思議だったんですよね。普通に取れば勝手に取れるじゃないかと。ただ、自分が勢いで取ってるとお手つきしちゃうから、お手つきだけ我慢してれば勝てるんだと味を締めてまして。我慢さえすれば優勝できると。それがスタートだったんですね。
ーすごいお話ですね。無敗のクイーンと名高い楠木さんも「負けるのが不思議」という感覚はお持ちだったんでしょうか。
楠木:いえいえ私は……。
松川:楠木さんの勝ち方はですね、私もよく見てきました。A級選手になるまでが大変だったと思うんですけど、A級選手になって優勝するようになってから、絶対負けない大選手になられました。スタートからとにかく、素人としては最高の素人だったんじゃないかと思います。永世名人というのは7回優勝すればいいんですが、私の場合は21歳で初めての名人戦、それで最後の名人戦が46歳。25年間のうち15回名人戦に出たんですよ。15回のうち結局、9回勝って6回負けたんですけど。実は9回勝ったことよりも6回負けたことの方がかなり私にとって嬉しいというか、よく私に勝てたなと思っていました。
私が27歳の時、当時は名人だったんですけども、1月に防衛して、その年の10月に、そのときやっていた4輪ですごい大事故をして肋骨を何本か折ってしまったのです。三日間意識不明でしたから、とにかく名人戦どころではなく。しかし現役の名人でしたから、私は出たいと言ったのです。むしろ肋骨が折れてるから、逆にもう少し無理せず取れるんじゃないかと。わたしは結構、マイナーな感じが好きなんですよね。あんまり自分を前に出すと必ず負けるので。こう、庇うみたいな気持ちの方が勝負には向いているんじゃないかと思ってましたから。
末次:でも周囲が止められたんですよね?
松川:はい。結局は出なくて。それを出ていれば、10回名人戦を取れたなと。そんな思い出がありますね。
<続く>