セプテンバーだよ、@SHARP_JP です。たとえば友だちの家に遊びに行った時、その人のCD棚や本棚が興味深い観察対象であることに、みなさん異論はないと思います。私なんて、おとなしい友人のC...
セプテンバーだよ、@SHARP_JPです。たとえば友だちの家に遊びに行った時、その人のCD棚や本棚が興味深い観察対象であることに、みなさん異論はないと思います。私なんて、おとなしい友人のCD棚に濃いブラックミュージックが並んでいたりすると、思わず興奮してしまう。もちろん電子書籍とサブスク全盛のご時世ですから、CD棚や本棚自体が絶滅に向かっているのかもしれませんが。
他人のCD棚や本棚がなぜ気になるかというと、そこにあるCDや本が雄弁にその人を表すからということに尽きる。自分の知るCDがあれば、そこがすなわち友人との共通項だし、知らない本があれば、それは友人への尽きない興味となる。だから恋人や恋人になりたいと思う人の棚なら、なおさら気になるし、なんならぜんぶスマホで撮って、後で拡大しながらひとつずつチェックしたくなりませんか。それはさすがに観察が過ぎるか。
そしてこれはもう、職業柄としか言いようがないのだけれど、私は他人の家にお邪魔した時、さらに目を凝らして観察してしまうものがある。それは家電。別にシャープ製かどうかをチェックしたいわけではない(気にはなるけど)。どちらかというと、どんなデザインや色を選び、種類やメーカーを選択し、どこでどう使われているか、そのサインを読み取りたいのです。
だが他人の家電を観察していると、相当な確率でどうにも気になってしまうことがひとつある。家電に貼られたシールだ。それも「省エネ」とか「xx端子搭載」「便利な○○モード」といった、メーカーが性能をアピールしようとあらかじめ商品に貼って出荷する、POPシールと呼ばれるもの。特にテレビに多い。一時期のシャープが必死で喧伝した「亀山モデル」みたいなシールといえば、イメージがつく人も多いかもしれない。そんなシールを友人の部屋で見つけた私は思うわけです。「それ剥がさないの?」
POPシールは店頭に並べられた時、広告として機能するために貼られたものだ。ましてやシールが貼られた状態で製品はデザインされるわけではない。だからメーカーも剥がされることを前提に貼っているわけで、けっこうな派手さとアクの強いシールを日常生活で目に触れさせるのは申し訳なさすら感じるのだけど、本人が問題ないのなら私が立ち入ることでもないかと、モヤモヤしつつ黙るわけです。
理系男子的剥がすか剥がさないか論争(小柳かおり 著)
そして唐突に小柳かおりさんの昨年のマンガを引っぱり出してきて申し訳ないけど、私の積年のモヤモヤが解消しそうな気がしたのは、この作品を読み返したからでした。理系男子から見た、家電のアレを剥がすか剥がさないか論争。
ここでは新品の家電の画面や外観を保護する、サランラップみたいなシートをすぐに剥がすべきだと、理詰めでとうとうと語られる。私もその理詰めに頷かざるをえない。購入され、いまあなたの元へやってきた家電は、ありのままを享受してもらうべきであって、つまりそのシートは用無し。存分に輝いた姿で、あなたに奉仕すべきだ。その家電を製造した側の私も、そう思う。
だけどその理屈は「しばらく使った後にもう一度新品の感覚を味わう」ために剥がさずとっておくという、中長期的な彼女の意見によって一蹴される。その後の理系彼氏の転向ぶりを見れば、いますぐに新品を謳歌せよという刹那な見方は、新品を二度味わうという、未来を見据えたビジョンには敵わないのかもしれない。そっちの方が、モノが愛されているような気すらする。現に私はいま、いつまでもシールを剥がさない人たちに、モノを大切にする人への信頼を感じはじめている。
いまもどこかでシールが貼られたままの家電を代表して、私からお礼申し上げます。ご愛用ありがとうございます。そしてどうか、末長いおつきあいを。