「自分がやらなくちゃ誰がやるんだ」
何でもいいからそんなことを言える何かが欲しくて仕方ありませんでした。
ですが自分のやらなかったことは上位互換の存在がもっとうまく処理してしまったり、そもそも自分がやらないと破綻するような活動には最初から需要なんか無かったりします。
自分がやらないといけないことなんか何も無いらしいと気づき、優しそうに見えて随分きびしい事実だなと落ち込みました。
たとえば僕は高校で陸上部長距離の代表でした。
顧問は良くも悪くも集団としての成功を重んじる古風なタイプの人で、代表の負担はかなり大きいものでした。
だからといって部活を辞める気はありませんでした。走るのは好きでしたし、集団のために必要だからだと思っていたからです。
変化があったのは3年の夏でした。秋に駅伝があるため、長距離部員はそれを引退試合とするのが慣習になっています。ですがその夏、僕を含めて3人しかいなかった3年男子の1人がやめました。それだけでなく、2年生のエースまで同時期にいなくなりました。
退部は、それぞれの理由はあるにしろ、その部活が当人にとって必要ないという最終的な意思表示です。代表の仕事は別に「皆のため」ではないのか、と部活に行くのがしばらく億劫になりました。
大学では趣味として1人で走ろうと思っていました。集団への負担がない分、純粋に走る楽しさだけを味わえると期待していました。
しかし結局ランニングは続きませんでした。どうやら「皆のため」と思いながら部活に行くというのは予想以上に自分のモチベーションにつながっていたようでした。
自分が楽しむためだけにやるほど、自分は走るのが好きなわけではなかったらしい、とも気付かされました。
改めて考えてみると、好きと言えるものが特に思いつきませんでした。
いつも何かしらの需要があるからと理由づけすることで「好き」を補強していたので、その需要を生み出せないと自覚した後では、それまでと同じような強度を保てませんでした。
そんな折に描き始めたのがマンガでした。
物語を作るという意味では、高校生のときから小説を応募したり、落選したもの(←実質的に全ての完成作品)をネットに載せたりしていました。自分にしては珍しく活動が継続していました。
もちろん創作活動への「好き」にも、いろいろな補強が施されています。
楽しみにしてくれるともだちのため、創作で救われた自分が似たような誰かを救うため・・・
そんな需要は願望でしかないことはもう知っています。
楽しみにしてくれるといっても、twitterのリンクを押す手間をはばかる程度の期待しかされていません。辛い思いをしている人はかつての名作を読み救われますし、かつての名作でも救われない人は現状僕の作品では救えません。
その上で、むしろ「どこにも需要がないぞ」と露骨に突きつけられることがあっても、自分はマンガを描くような気がしました。
自分がやらなくてはならないことは見つけられていませんが、それでもやりたいと思うことを見つけるのには成功しました。
マンガへの「好き」がゆらぐ日もいつか来る気はしています。
「何回落選しても挑戦した、それはそれだけ好きな証拠だ」と思っていますが、落選した悔しさが原動力な可能性もあります。また日常生活がそこまで充実していないことの代償としてマンガを選んでいるだけで、仮に彼女なんかが出来たらあっさりやる気を失うかもしれません。
それはそのとき考えるとして、今の自分が好きだと思うことを追えるのが幸せなのかな、と考えています。
そんな思いでマンガを描いています。秋野ひろと言います。
そんな思いの片鱗が垣間見える、『脚の枷(https://corkbooks.com/articles/?id=3679&smode=on)』というマンガを描いていくのが当面の目標です。
松本大洋作品が大好きです。他には狩撫麻礼、佐藤秀峰、浦沢直樹、マンガ以外だと澁澤龍彦、寺山修司、藤原伊織などが好きです。
よろしくお願いします。
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