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シャープさんさんの作品:盛りのブーメラン

私みたいな者でもできれば実物よりよく見られたい、@SHARP_JP です。盛りが花盛りである。みんなどこかで、盛りに盛る。並盛りなんてもってのほか。小盛りか大盛りがデフォルトだ。


盛るのはなにも写真だけではない。テキストだって盛れる。この文章も徒然と書いているとはいえ、脳から文字に定着させる直前に「私という書き手が少しでも理知的で善人に」見えるよう細かく補正される。そうやって文章は書き上げられ、ネットに公開される時には、じゅうぶんに私は盛られているのだ。効果のほどは定かではないけど。


だれだって自分はどこか足りていないと感じている。だからせめてスマホ越しの自分だけは現実よりマシでありたいと思う。たとえ盛りが束の間であっても、実物にガッカリされようとも、自分をとりまく人たちから自分の欠けを認識されない時間を願うのだ。若さゆえに世間が狭い人なら、その切実さはなおさらだろう。


私が仕事とする公式アカウントだって、一種の盛りだ。ツイートは「親しみやすさ」という意図のもとにコントロールされ、たとえ仏頂面で企画された商品であっても、さぞ楽しげな製品であるかのように文面は作られる。作られるというか、私がそう考えて書く。


もっと言えば、私はほぼ毎日、ツイッター上でヘラヘラしている。雨の日も風の日も、会社でクソみたいなことがあった日も、ヘラヘラしている。私は細心の注意を払って、少なくともツイッターの中では毎日機嫌よく見えるようにふるまっているのだ。いかに会社の中がうんざりするような慣習や組織にあふれていようとも、徒労やおせっかいやせまい人間関係やマウンティングに遭遇しようとも、私は歯を食いしばりお気楽にツイートする。それはもはや詐称ではないかとの思いがよぎることもある。


なぜそんなことを続けるかというと、つまるところどこの会社もそんなもんだろうという諦めと、お客さんには無関係なバックヤードを見せるべきではないという職業上の美意識ゆえだと思う。だれからもよく見られたいという欲求は、企業やブランドですら無縁ではない。クソみたいな内情はなんとか自分で処理して、外からは「欠け」を感じさせないようにふるまう。多くの人に選んで買ってもらうのが宿命の営利企業なら、それはなおさらの欲求だろう。



ウソから出たいマコト(眠井アヒル 著)


だからつい自分の就活事情をSNSで盛りはじめてしまった女の子を、私は笑うことができない。自分のギリギリのプライドを死守するためについてしまったウソ。そのウソが雪だるま式に彼女自身を追い詰めていく(が、新たに得られることもたくさんある)話である。


盛りは時に巡り巡って自分を傷つける。たぶんウソかどうかが、盛りがブーメラン化するかどうかを分けるのだろう。自分の中にある確かななにかを少し着飾って見せるのと、ないものを捏造して提示することは、似ているようで致命的に異なる。そこの見境がつかなくなった時、盛るという行為は危険性を帯びていくのかもしれない。


だからといって私はやはり、ウソからはじまる盛りを諌めることができない。自分をギリギリ守るためにウソをついてもいい場所があることが、さしあたっての救いになる人はきっとたくさんいる。だからせめて私は、ウソがウソであるとわかっても、そのウソの後ろに切実さが感じられる限りは、そっとしておこうと思うのだ。

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