祈りと占いは両立するか。初詣のおみくじ問題。

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シャープさんさんの作品:祈りと占いは両立するか。初詣のおみくじ問題。

初詣は行きましたか、 @SHARP_JP です。平均的な信心深さを持ち合わせている私は、正月の初詣は欠かしません。胸を張って言うことでもないけど。ただ生まれも育ちも京都のせいか、寺社仏閣には馴染みがあるし、前を通りがかればふらりとお参りしたりはする。寺も神社も、どちらかというと好きな場所だ。

初詣では参拝の後におみくじを引く人も多いでしょう。私もだいたいそうする。ですがおみくじを引くとき、いつも私は少し不思議な気持ちになる。

「さっき本殿でつらつら述べた私の願いが叶えられるのなら、成就を占うおみくじはそもそも引く必要がないのではないか」

そういう狭量な逡巡が、100円を握りしめ、筮竹をジャラジャラ振ろうとする私の心の中を過ぎるのだ。

私たちは寺や神社で捧げる祈りが都合よく聞き入れてもらえないことを知っている。どんな祈りも通じる世界なら、占いは存在しないかもしれないけど、あいにく現実は祈りがほとんど通じない世界だ。

なにかに合格したい。だれかと恋愛したい。仕事で成功したい。お金を手に入れたい。あこがれの職業に就きたい。勝負に勝ちたい。スキルを習得したい。われわれが神様仏様へ「なりますように」と一方的に捧げる祈りは、たいてい他人まかせでは成就しない。なりたい私になるには、まず自分が一歩を踏み出さないとはじまらないのだ。

そんなことはわかっているけど、われわれはつい、なにもしないまま、なりたい私を祈ってしまう。そしてその虫のよさを自覚しているからこそ、祈りの後におみくじにすがるのかもしれない。考えてみれば私たちの生活に根付いた占いは、一歩踏み出す勇気へ、そっと背中を押してくれるものばかりだ。

もちろん人智を超えた事象、たとえば天候や自然、あるいは自分ではないだれかの無事や健康を祈願するような、ただ祈ることしかできない願い事もある。そこにあるのは、無力で純粋な思いだ。しかし、自分に向けたワナビーな祈りはちがう。それは本来、自力本願をはじめた人だけができるものだろう。だからみんな、おみくじに勇気をもらおうとする。こうして私たちの中で、祈りと占いが矛盾することなく両立していくのだ。



去年の今ごろに描いたものです。(あまいろ 著)


初詣のマンガです。マンガ冒頭の、いわゆる実家の小言は耳に痛いけれど、その正論に負けてしまうほど、作者の夢は弱いわけではない。おそらく作者は、一心不乱にマンガを描き、マンガ家になるという夢を自力本願しようとされているのでしょう

だから初詣の祈願だって、堂々としている。ほかとは真剣味がちがう。努力しているのだから、祈る資格はあるのだ。だけど人間の願望はいつもひとつではない。別の成就もつい欲しがってしまう。がんばっているから、いやがんばっているからこそ、もうすこし求めてしまう。だから作者が最後にそっと付け加えるように祈った、恋愛相手を求めるお願いだっていいじゃないかと、私は思うのです。

ただしそのワナビーな祈りは、ほんの少しの勇気が必要だ。そして勇気は、おみくじや占いで背中を押してもらえばいい。背中を押されれば、成就はぐっと近づくはず。

みなさんの一年が、一歩を踏み出す勇気に満ちた年になりますように。

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