私の中の私。セルフツッコミする私。

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シャープさんさんの作品:私の中の私。セルフツッコミする私。

私以外私じゃないし、私は私で意義があるし、@SHARP_JP です。ややこしいことを言いはじめますが、私は、と書き出す時の私はいったいどの私でしょうか。いまここで私は、と書きはじめたのはまぎれもなく、いまここにいる私ですが、私の中にだって私以外の私がいるし、それぞれの私はその場に応じて、そつのない私が選択される。いまここに表出している私は、なんだかもっともらしい文章を書いて、多少は賞賛をいただきたいと目論む、見栄っ張りな私だ。


文法では一般的に、話し手を一人称、聞き手を二人称、話し手でも聞き手でもないその他を三人称とします。わたし、あなた、彼・彼女あるいはあれ、というやつ。小説なんかだと、主語がどの人称で描写されていくかで、味わいがまったく変わってくる。たとえば三人称が用いられる場合、話し手でも聞き手でもない者が主語なわけですから、それを語る話者、つまり作者がその文章の外に厳然と存在するわけです。


では一人称が主語なら、その語り手が本人そのものかといえば、必ずしもそうではない。小説なら話し手を偽装するためにあえて私という人称を使うこともあるし、そうではない文章でも、たとえばツイッターだって、私と書かれているからといって、それがアカウントの主たる本人を指さないこともある。なりきるキャラや架空の人格を作り上げることだって、いまや日常のコミュニケーションだ。


つまり私という一人称を選択しているから、それが私やあなたという人格をまるごと示すわけではない。わたしたちは随時、そう思われたい私を実現するために、私の中から私を選択するのだ。当たり前のことだけど、私たちはありのままの姿をすべて見せるわけではない。レリゴーではない。


言いかえれば、だいたいの人は客観性を持ち合わせている。自分がどう見られているか、どう見られたいかを、冷静に判断しつづけている。いつも私の中に、監視するもうひとりの私がいるのだ。私のことを見る私がひとりではなく、私のことを見る私を見る私がさらにいる場合だってあるし、そういう私を見る私が3階建て、4階建てになった人もいるだろう。


そして私は、この場合の私はシンプルに1階にいるただの私ですけど、そういうありのままの自分になることができない人の、ややこしい自意識や文章が好きだったりする。



夜明け前に走り出して(ナストイチハル 著)



「私のことを見る私」が表出する典型的なケースが、独り言ではないだろうか。それも自分で自分の行動に批評を入れていく、自己ツッコミというかたちの独り言。私にも身に覚えがある。


こちらのナストイチハルさんの作品も、主人公の自己ツッコミモノローグがストーリーに並行する。主語としての私は省略されているが、一人称で川沿いを夜明け前に散歩する様子が淡々と描かれる。ここで特徴的なのは、主人公が目にしたもの、耳にしたもの、鼻にしたものに、いちいち入るツッコミだ。ツッコミの部分は端正な地の絵とは異なり、デフォルメされたマンガ的な絵が当てられ、その客観性がより際立っている。ただでさえセンチメンタルになりがちな、思春期の夜明け前の散歩に、いちいちの独り言によって妙なリアリティがもたらされるのだ。


そして主人公が朝日の昇る橋に差し掛かろうとする時、そのツッコミがかつて橋で朝を待った過去の自分へ向けられる。失恋する前の自分へ呟かれるツッコミは、冷めているゆえに、エモーショナルさがいや増す。その後泣きながら自転車で疾走する姿は、若いという言葉を呟かざるを得ない、美しさがある。


だがマンガは直後、また自分が目にするものへのツッコミにあっけなく戻る。目にするキラキラした川面。悠々と泳ぐ母ガモ。いやにポジティブな朝の光。それぞれ目にしたいちいちを、私越しに私がつっこんでいく。その切り替えのはやさと目にするものすべてにつっこむメンタリティが、刻一刻と変化して成長を爆走する、いかにも思春期らしい行為に私には思えて来て、なんともまぶしい。そしてすかさず、思春期の若さに目を細める私に「失くしたものをねだるな」と、私の中の私による、自己ツッコミが入るのだ。


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