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シャープさんさんの作品:おしゃれは新規参入も持続的成長も難しいという話

まともがわからない、@SHARP_JPです。「服を買いに行く服がない」とは、おしゃれになることの困難さを表す名表現だと思いますが、まったくもって私も同意します。私だってそれなりに、自分が好きな装いや服の感じはあるし、流行りのシルエットや色なんかも、おそるおそる自分のクローゼットに取り入れることもある。鏡にうつる自分をおしゃれだなと思うことなんてめったにないけど、いやむしろ「なんかちがう」の「なんか」がわからないまま、いつだって季節は過ぎゆくけど、気に入った洋服を探すこと自体は、私も嫌いじゃない。


ただ、ファッションが記号であることもまた事実だと思う。私が好きな服の感じは、私がそういう雰囲気を好む人間であることを周囲にわかってほしい欲望が透けているし、私も相手の装いを見てその人となりをずけずけと判断している。服に無頓着な人だって「私は服なんかに構う暇がないほど他のなにかに打ち込む人間だ」という表明かもしれないし、ちょっと悪そうな格好をする人は、どうやらちょっと悪そうな人だと思ってほしい節がある。ロックミュージシャンのような装いの人はほぼ間違いなくロックミュージックが好きだし、ロリータファッションの人はロリータの世界観に心酔している。似合う似合わないという話ではなく、ファッションは「私はこれが好き」のサインでもあって、その点にこそ私は、おしゃれの楽しさがあるように思う。


しかしファッションの記号性は、同時に「敵か味方か」を選別するサインとしても機能してしまう。自分の装いが「そのサインを理解できる人」を選別し、同好の士だけを呼び寄せるわけで、自分に対するコミュニケーションのハードルを上げている可能性だってあるはずだ。それが意図したものならまだしも、もしいろんな人と仲良くしたいと思っているなら、その装いが排除の副作用をもたらしているかもしれなくて、ことほどさようにおしゃれは難しい。


ファッションにまつわる、その独特なコミュニケーションの敷居の高さは、ハイブランドの路面店に入る時を想像すればよくわかると思う。洋服につけられた値札と自分の財布が釣り合うかは別にして、そこのブランドをなにひとつ身につけていない時の入店の困難さといったら、そうとうなものだ。たとえばコムデギャルソンの店は、コムデギャルソンという記号を纏わない者を厳然とつまはじきにする(ような)気がするし、グッチやエルメスなんかにいたっては、永遠の一見さんに封じ込められている(ような)感覚に陥る。「服を買いに行く服がない」とは、おしゃれをはじめるのが難しいことを言い表しているだけではない。おしゃれははじめるのも、更新するのも難しい、と言っているのだ。



美容院に行く時の悲しい性(小柳かおり 著)


なんとなく敷居が高いといえば美容室も忘れてはならない。美容師さんはそんなこと忘れてほしいかもしれないが、この小柳かおりさんのマンガを読んだ人たちは、忘れるわけにはいかないはずだ。


そもそもおしゃれになりに行く場所は、どこか気恥ずかしい。おしゃれになりたい自分の欲望が丸見えになるところも、おしゃれのビフォーアフターを他人に目撃・検証されるところも、なかなかハードな場所である。せめておしゃれになりに行く場所では、おしゃれじゃない人がいてくれと望んでも、このマンガのように、待ち受けるのはイケメンあるいはお美しいみなさまたちだ。むこうはおしゃれのプロなのだから、それは当たり前なことなのだけど。


ただし、無駄に過剰な自意識を抱えたわれわれは、その敷居にいつも怯えてしまう。それを解消するには、自分がおしゃれになるしかないのだけど、われわれには「おしゃれになりに行くおしゃれな自分がいない」のだ。それはほんとうに、あたまいたいできごとなのだ。

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