シャープさんの作品:拝啓 拝啓が書けません

拝啓 拝啓が書けません

子どもの頃の習い事は習字でした、@SHARP_JP です。わがことながら先日びっくりしたことがあった。壊滅的に漢字が書けなくなっていたのだ。ペンを持ち、書くべき文に必要な漢字がことごとく書けない。頭の中では正しい漢字が選択されているのだが、うまく書きつけられないのだ。人並みかちょっとそれ以上、くらいは漢字を知っている自負があったので、それはなかなかの衝撃だった。


もちろんパソコンやスマホのキーを使って書く分には、漢字もスラスラ書けるのである。間違うこともほとんどない。正しく選べる。しかし正しく手書けないのだ。とにかく部首だったり、点やとめ・はね・はらいといったパーツがおぼろげなのだ。


理由には心当たりがある。在宅勤務であろう。ただでさえ減っていた「手で文字を書く」という行為が、リモートワークによって絶滅のレベルにいたったのだ。オフィスで働いていたころは、書類のメモや伝言、かんたんな郵便などで、まだかろうじて手で書く機会は残っていた。


それが一転、リモートワークでは仕事はすべてパソコンかスマホで完結させる必要がある。ただでさえメモを取らない粗雑な私は、オンラインの打ち合わせならメモも横目でパソコンに打ち込むし、だれかへの伝言もチャットで済ます。郵便を送る機会もほぼない。スケジュール管理も手帳から離れてしまったので、たぶん思っていた以上に「ペンを持って字を書く」行為がなくなっていたのだろう。


そんな中ひさしぶりに手で書いた自分のメモは、おどろくほど情けないものだった。すべての漢字はたどたどしく、漢字を構成するすべての点と線は自信なさげにそこにあった。私はもう、漢字は読めるし選べるけど、書けなくなってしまったのだ。似たような人は多いかもしれない。



いいかんじの手紙の字の書き方(nakamuratamaki00 著)


手紙も似たような状況ではないか。私信という意味での手紙なら、私たちはいまなお、ばんばん書いている。ほぼ毎日、LINEやメールで誰かにあてて、思いの丈を綴る。しかし手書きの手紙となると話は別だ。めっきり見かけない。年賀状すらご無沙汰してしまう私なんか、時候の挨拶をふくめた手紙など、しばらく書いた記憶すらない。いま書けと言われれば、泣きたくなるほど書けないし、書けた便箋を見返したら、もう一度泣きたくなるにちがいない。


だからこそ、手書きの手紙の希少価値は上がっている。私たちはモニターやスマホ越しの、発光した背景に浮かぶ文字にまみれる日常に移行してしまった。画一的なフォントの無機質さを消そうと、どんなに絵文字やスタンプを使っても、手で書かれた文字ほどのオリジナリティを、やっぱり私たちは超えることができないのだ。


私だって、さらりと手書きの手紙くらいしたためられる人間でいたい。それをもらった人にちょっと素敵だなと思われたい。だから多少、漢字がおぼつかなくとも手紙を書こうと思い立つ。だが住所を知らないケース、さいきん多くないか。素敵だと思われたい人が私にはたくさんいるけど、住所を知らないのだ。かくして手紙のハードルはそびえ立つ一方である。