いつもなにかを懐であたためている、@SHARP_JP です。自分が好きなものを他人におすすめするのは、案外に難しいと思いませんか。ひとくちに「推し」と言っても、セルフで推すのと第三者へ推すのとでは行為のベクトルが異なる。自分の中だけで好んだり応援したりはのびのびできるけど、自分の好きを他人へ布教するとなると、ぴたりと足が止まる人は多いと思う。
上ずった声音と早口で自分の得意分野をまくしたてるオタクの姿がステレオタイプ化したせいか、なにかを濃く好きな人は饒舌だと思われがちだ。だが実際はそうではない。腕のいい職人が寡黙なように、自分の好きを内燃機関として求道的に推しを極める人に、みんな心当たりがあるにちがいない。
そうでなくとも、自分の好きを語るのは難しいのだ。自分の好きを語るには自分を覗き込む必要がある。自分を覗き込み、自分の感情の出処を探り、場合によっては自分の奥深くで厳重にしまいこんだ記憶すら引っぱり出さなければいけない。それは人によっては、そうとうつらい時間になりかねないだろう。
しかも好きを語るには、それだけでは終わらない。自分を覗き込み、すくい上げてきたものを手のひらに乗せて、ためつすがめつ眺めなければいけない。主観を手にした後、一度客観の側に回り込んで自分を眺める。それこそが自分の気持ちを言語化する一歩目となる。そうやって時間をかけ、推すという行為がようやく完成に向かうのだ。
ましてやいまは「尊い」という便利な言葉がある。広くて便利なテンプレワードに流れず、自分の言葉を紡ぐにはそうとうな集中力がいるだろう。もちろんテンプレを使ったってなんら問題はない。問題はないけれど、ほんのひと時でも自分を覗き自分を眺めるという修行を課すことは、のちに自分への肯定と表現につながるはずなのだ。そうすれば、そこから先はあなたの芸術となる。私はそう思いながら、たまに歯を食いしばって、自分の好きに向かい合う。
わたしの苦手なアレ(みりこ 著)
繰り返すが、他人に自分の好きをおすすめするのは簡単ではない。家電や道具ならまだしも、それを使って便利だった点を具体的に説明すれば、おすすめする用は足りる。だが人や作品はそう単純ではない。利便性や効率とは別のところで、あなたの心を打つから。
だいたい、好きは出会い頭に訪れるのだ。まるで事故のように、私たちはだれかの作品や表現に出会ってしまう。出会い頭の事故に理由が説明できないように、私たちは好きのはじめに、その理由をあれこれと饒舌に語ることはできない。だからこのマンガで描かれるように、好きをおすすめしようとすれば語彙が消えるというのは、至極まっとうなことだと思う。
自分の好きを語るには時間と労力を要する。だから作者は、推すの手前にシンプルなアクションがあると主張する。RTだ。自分で語る言葉が自分の中で熟成されるまでは、私以外のだれかが出会い頭の事故に会う確率を増やすのだ。SNSの功罪はとかく語られがちだけど、RTやシェアというアクションは、好きを語る難しさのハードルを下げたことは、世界に功をもたらしたのではないか。そしてそれは着実に、表現する人を勇気づけ、表現しようとする人を増やしてきたはずだ。その点において、世界は着実に豊かになっていると私は信じている。推すのは難しいけど、できることは増えたのだ。