シャープさんの作品:私信が他人の胸を打つ

私信が他人の胸を打つ

ネット越しにこんにちは、@SHARP_JP です。インターネットやSNSの功罪はよく論じられることですが、私なんぞに言わせれば、世界中のかわいい動物の様子を見聞きできるようになった点でネットは人類にじゅうぶん恩恵をもたらしたし、かんたんでおいしいレシピをいくつも知ることができた点だけで、すでにSNSには功しかない気がするのだが、どうだろうか。


それがなかったら知ることもなかった。それがなかったら見ることもできなかった。ネットやSNSは、まさに「それ」に当たるものだが、「それ」によって知って見たことの中には、知らない方がよかったことや見なければよかったことも含まれてしまうから、どうしても功罪が語られるのだろう。


いずれにしろ、私たちはネットやSNSによって、清濁あわせ飲むかたちで、膨大な知るはずのなかったことを知り、見ることができなかったものを見られるようになった。おそらく私たちの生活は、それ以前の状態に戻ることはないだろう。知ることも見ることも、人間の根源的な欲求に直結しているから。


ではいったいわれわれは、なにを知り、なにを見ているのか。その大部分は「どこかだれかの個人的」なことだろう。YouTubeで配信される個人の話、インスタやフェイスブックに流れる友人知人の近況、ツイッターでバズるだれかの発見やエピソード。あるいは思い出。かつて新聞やテレビを通して私たちの日常へ配給されていた社会の出来事とは異なる、とてもパーソナルな出来事。私たちは大きなニュースだけでなく、小さなニュースこそ、多様に摂取できるようになったのだ。


個人の話が個人を通してどんどん伝わる時代。社会や世界の仕組みに関わるパブリックなニュースももちろん大事だけど、きょうもわれわれのもとには、どこかだれかのパーソナルなニュースが続々と届く。そしてどこかだれかの個人的な話こそ、ひろく人の心を動かしている。



先輩へ(トケイ 著)



この漫画もSNSでそうとう話題になったし、各所で作者さんへの取材を含めてニュース記事にもなっていたので、目にした人も多いと思う。私もツイッターで知った。一読して、胸が締め付けられるような気持ちになった。


ここで描かれているのは、作者と、作者が働く職場の先輩と、クソな上司の話だ。それはつまり、作者トケイさんの個人的な話だ。個人的な夢、個人的な悩み、個人的な絶望、個人的な救い。それらの話が、先輩あての手紙として描かれている。そしてその手紙を、多くの人がスマホ越しに目にした。その小さくて個人的なニュースが、大きな反響を起こしている。


それにしても私信が他人の胸を打つのはなぜだろう。冒頭から「これは先輩にあてたラブレターだ」と宣言され、最後も先輩への謝辞というかたちでマンガが閉められる。そのパーソナルで箱庭的な体裁は、私たちの見たい・覗きたいという欲望を掻き立てるのかもしれない。


だがそれ以上に「たったひとりに向けて発信された」という親密さとリアリティが、見る人に「これは私あての手紙かもしれない」あるいは「これは私が書くべき手紙だったのかもしれない」というメッセージを受信させるのではないか。それを共感というのはかんたんだ。しかしその共感の交換こそ、小さなニュースが流通する時代がなしえた、そこそこ大きな発明ではないかと、私は思うのだ。