シャープさんの作品:胸のムカムカ

胸のムカムカ

器の小ささには自信があります、 @SHARP_JP です。あまり褒められたことではないけど、ざまあみろと思う時がある。正直に言えば、しょっちゅうざまあみろと言いたい。そういう機会をうかがっている。私はいつだって溜飲を下げたいのだ。

 

溜飲とはもともと、消化不良の胸焼けを指す言葉だそうだから、「溜飲を下げる」とはまさにあの胸のムカムカを追いやった時の爽快感を表しているのだ。テレビを点けると嫌な人間をぎゃふんとさせたエピソードの再現番組が人気だったり、あいかわらずゴシップを解説するワイドショーがたくさんあるところを見ると、溜飲を下げるための需要と供給はバランスがとれているのだろう。

 

ましてやネットである。真偽はともかくのまま、「嫌な目にあった」あるいは「やり返してやった」エピソードが、見た人の共感を集めることでしばしばニュースになる。多くの人が溜飲を下げることで、個人の体験が社会的なイシューと並ぶまでに巨大化するのだ。

 

もちろんそれは私たちにとって必ずしも悪いことではない。きっかけはたとえ小さな出来事でも、みんなが溜飲を下げることで社会の不合理が是正されるなんて、すばらしいことだと思う。また個人が体験した理不尽が多くの賛同の声を集めた結果、社会制度やマナーが変化するダイナミズムそのものに、多くの人が溜飲を下げることもあるだろう。社会の理不尽や不合理に対して、みんなで「ざまあみろ」と力を合わせるのは、SNSとスマホを手にした私たちが編み出した最新型の防具なのかもしれない。

 

「そんなにスカッとしたかったっけ」(ヘケメデ 著)

 

とはいえツイッターを開けば、毎日のようにスカッとジャパンな話が流れてくる。私たちはそれにいいねをつけたりRTしたりなにか言い足したりする。ネットやSNSによって、溜飲を下げる機会は増し、溜飲を下げるハードルが低くなったこともまた、私たちが感じるところであるはずだ。溜飲を下げることは、日常の仕草と化した。そして私たちは溜飲をもっと、下げたくなる。

 

つまりこの漫画で語られるように、ざまあみろとかぎゃふんと言わせたい気持ちには中毒性があるのだろう。その種の中毒性は、そこまで思っていなかったことを、私たちがまるで昔からそう思っていたかのように錯覚させる作用があるのかもしれない。怒っていなかったことや心配していなかったことを、遡って怒ったり心配する。溜飲を下げる爽快感が得難いものゆえに、あらかじめ下げる溜飲を自分の中に作ろうとする、逆説的な行為ともいえる。それはまるで過食症に陥った人が、吐くために食べることに似ているのではないか。

 

思えば私たちは、溜飲を下げるのではなく出すようになったのだろう。いままでは胸のムカムカもぐっと飲み下すことでやり過ごしてきたが、SNSによって私たちはムカムカを外に吐き出せるようなった。二日酔いのムカムカを嘔吐した時の、あの一時的なスッキリ感を思い出せば、それもまた無理もないことかもと思う。

 

いまや下げるどころか溜飲を吐けるようになったわれわれは、あらかじめムカムカを自身の中に作り出そうとする、なかなかやっかいな問題に直面している。吐きたくないなら酒を飲むなということなのだろうが、そうもいかないことは酒を飲む人ならよく知るところだろう。スカッとしたい気持ちは、どうやら少し、タチが悪いのだ。