シャープさんの作品:ダジャレおじさん

ダジャレおじさん

くだらないことに意味を見出すのが好きです、 @SHARP_JP です。まったくもって私の主観だし、ただの憶測と思ってもらって結構なのだが、ダジャレを言うおじさんが絶滅の危機に瀕しているのではないか。10年くらい前なら、仕事のあちこちにダジャレを連発する年上のおじさんがふつうにいた。そういう感覚がある。

 

5人以上の打ち合わせになると必ずダジャレで話の腰を折るヘラヘラ陽気なおじさんがいた。なにかの説明を申し上げるたびに、まるで相槌を打つように小声でダジャレを繰り出す得体の知れぬおじさんもいた。関西圏に住んでいるから、対面でモノを買う際にダジャレまじりの接客も日常茶飯事だった。「はい、おつり100万円」と100円を渡すおじさんも、実際にいるのだ。

 

いずれのおじさんにも、近頃めっきり遭遇しなくなった。不意打ちのダジャレに面食らう経験なんて、もう久しくない。原因はうすうすわかっている。なんでもネットで買うようになって、私たちは商売するおじさんに接触しなくなった。それはコロナの日常で決定的になったし、仕事で会うダジャレおじさんも同じだろう。

 

コロナ禍における働き方といえば、オンラインの打ち合わせだ。あの定刻通りに前置きなくはじまって、寄り道なくテキパキ終わるマナーに、いまや私もすっかり慣れたけど、あの余白のなさにダジャレおじさんの住む場所はなかなかないとも思う。無駄も与太も話しにくいZoomの打ち合わせで、ダジャレを口にするにはそうとう強い心臓が必要だ。

 

それから、なにか考えたり作ったりする系の仕事に顕著だと思うのだが、コロナ禍によって仕事が圧倒的にテキストベースになった人は多い。私もそうだ。仕事でしゃべることが減り、文章でやりとりすることがぐんと増えた。しゃべるように文字を打つことが、友だち相手でない仕事でも、すっかり浸透してしまった。

 

しかしダジャレとテキストは相性が悪い。ダジャレは減衰する空気の振動として発せられることにこそ、そのはかなき良さがある。だから声に出すダジャレはじきに消えるから許容もされる一方、書くダジャレは視覚に残るし、実行に移すハードルは高い。仕事中のダジャレにも、書くという相応の勇気が必要になったのだ。ダジャレおじさんが激減したのは、ここにも要因があるのではないか。

 

 

スカイダイビングとバンジージャンプどっちをやるか迷う話(タワシ 著)

 

 

話の本筋とはまったく関係ないのが申し訳ないが、私はこのマンガでダジャレおじさんの絶滅を憂いてしまったのだった。なぜかどのコマにも、作者のセリフの端々を拾ってはダジャレを言う妖精さんがいる。その妖精さんに私は、なにかにつけてダジャレを口にしてしまう、かつてのダジャレおじさんを想ったのだろう。

 

たぶん私はダジャレおじさんをウザいなとは思いつつも、好ましく感じていたのだ。いま私は、ダジャレおじさんの不在が少し寂しい。この寂しさをうめるには、このマンガのように、自分の頭の中で小さなダジャレおじさんを飼うしかないのかもしれない。

 

ほら、だれもが身に覚えがあるのではないか。時々まったく文脈を無視して、自分の思考をぶったぎるように現れる、ダジャレが言いたくて仕方のない自我。あれを私たちは、自分の頭の中に小さなダジャレおじさんとして、飼い慣らせばいいのではないか。いいのか。いいのです。いいですいいですイーデスハンソン。