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シャープさんさんの作品:思い出はいつも、ふたつある。記憶の話。

平成最後というコールも聞き飽きましたか、@SHARP_JP です。これが最後最後と言われたって、私たちの日常は続くし、元号で区切られる時間とは別の流れで、私たちは出会いと別れを繰り返す。時にはだれかの死に直面し、もう二度と会えない別れを経験することだってある。ここを読む人の中にも、平成よりずっと名残惜しい、切実な別れを経験した人がいるかもしれない。


人は死んでもだれかの記憶の中にあるかぎり生き続ける、というのはほんとうだろうか。記憶は多くの場合、人と人との交歓のうちに生じる。だから思い出は、両者の中にふたつある。ふたりの思い出とは、一方の記憶だけでは足りなくて、たがいに補完しあわないかぎり完成しないのだとしたら、だれかの死はふたりの思い出を欠けたままに留めることだ。ふたつでひとつが成立しなくなるのは、やはり悲しい。


私たちが生きる中で交歓した記憶はいつも半分で、だからこそまた会い、昔話に花を咲かせ、新しい記憶を紡ごうとする。思い出はいつも、相手からの補完を求め、その連続がいつか物語になれと願うのだ。もしその人が死んでしまえば、記憶は半分のままで、補完されなくて、物語が宙吊りになってしまったようで、だから寂しい。


私とおばあちゃん(まき はるか 著)



この作品、つい先日まきはるかさんのツイッターで投稿され、そうとう数の涙腺をじんわりさせたようですから、おぼえてらっしゃる方もいるかも。


ここでは、おばあちゃんと私、ふたりの思い出が綴られます。幼いころから時を重ねて、おばあちゃんの死が具体的に思える年になる。おばあちゃんがいなくなると、ふたりの思い出の半分がなくなってしまう。その時を想像して、たまらなく寂しい気持ちになる。


「もしおばあちゃんがいなくなったら」

「私とおばあちゃんしか知らないたくさんの出来事は」

「私しか知らない思い出になっちゃうんだ」


たとえ記憶の中で人は生き続けようとも、その記憶を知る人は現実から減る。死はふたつあった記憶をひとつにしてしまう。あとはただ、残ったひとつをなくさないように、大切に抱えるしかない。


私たちはそれに抗うことはできない。私たちは悲しい予感へ途方に暮れるしか能がない。しかしひとつ希望があるとすれば、この作品の最後に描かれているように、私たちよりずっと多くの別れを経験してきたおばあちゃんが、現在進行形で笑顔を見せることだ。


長い人生の中、ふたつがひとつになってしまう思い出をいくつも抱えてきたであろう人が、悲しい予感に打ちひしがれず、途方に暮れず、いまも新しい物語を紡ごうとしている。それはたとえ、ふたりでひとつの均衡が崩れたとしても、あなた自身の記憶は消えず、ふたりの関係が無に帰すわけではないという証明に思えて、これから別れに向き合う側は、少し勇気づけられるのだ。悲しいけど臆することではない、と。

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