人でも言葉でも行動でも、とにかく信用できるものが好きだ。
これは先日の、コルクラボマンガ専科で行われた山田ズーニーさんの講義で発見したことのひとつだった。それまではっきりとは自覚したことがなかったので、結論として出せたときはかなり気持ちよかった。
そして先日、この「信用できるものが好き」の、もう一段階奥にある感情に気付けた・・・気がする。
きっかけは、これもコルクラボマンガ専科にある。
第3回で出された「好きなものをマンガで描く」という課題で、僕は「信用できる言葉を探すこと」をテーマで描こうとしていた。
困ったのは、なぜ 信用できる=好き なのかを自分でもよく分かっていないところだった。
だって信用できないよりできる方がいいやん・・・と迷走し始めたので、とりあえず課題は置いて別のネームに取りかかることにした。
そのネームを作るに際して、佐渡島さんが「キャラクターの性格をはっきりさせるには、まず世界観がしっかり決まっていないといけない」と言っていたのを思い出した。
この言葉の意味を、僕はこんな風に解釈している。
たとえば、人を殺しても何も感じないという性格の持ち主を描くとする。
このとき、今の日本のような世界が舞台なら、このキャラクターは猟奇的な異常者として見られると思う。でも戦争中の設定なら、人殺しはその世界ではあまり特別でなくなるから、殺すことに何も感じない人がいてもそこまで変だと思わない。
人を描くには、基準として周囲の関係が必要になるということだ。
この復習を行なったとき、頭の中がざわざわとうるさくなった。
今、なんか大事なこと言ってないか?しばらく意識しといた方がよくないか?
自問自答を繰り返し、この考え方が 信用できる=好き の理由を考えるときに当てはまると気が付いた。
もしかして、僕にとっての「信用できるもの」は、ネームの話での「しっかりした世界観」に置き換えられるんじゃないんか・・・?
先ほどと同じように考えてみる。
僕の、「常に1人か2人、考え方に依存している相手を意識している」という性格を例に出す。
この性格を持つ僕がどんなキャラクターなのか知るには、世界観が、つまり周りの人たちがどうなっているのかを知る必要がある。
多くの人が独立した考え方をしているなら僕は粘着質な印象になるかもしれないし、逆に誰でも僕と同じように考えているなら普通の性格ということになる。
このとき、僕を迷わせるものが信用できないものたちだった。
同じ人であっても、恋人の考え方に合わせたいと言っていると思えば、大差ないはずの信仰心を持つ宗教に対して嫌悪感を示したりする。
こういった言葉は役に立たないどころか、世界観を揺らがせてしまう。どっちやねん!と叫びたくなる。
そんなんされたら・・・
・・・そんなんされたら、どうなるのか?
長くなってしまったけども、ここでようやく今回僕が出した結論にたどり着く。
そんなんされたら、僕の性格がどうなのかわからんやんか!!
信用できない言葉に囲まれると、自分がどんな人間なのかが揺らいでしまい、それが僕は怖かったのだ。
この否定文を言い換えると、信用できる言葉によって自分を知りたい、になる。
結局のところ、ゴールは思春期丸出しの自分探しへの欲求ということになった。
恥ずかしいくらいありふれた感情だが、だからこそ納得できる気もする。
今回、ここまで考えてとにかく実感したのは、感情に言葉という形を持たせられたときの気持ちよさだった。
この考え方もまだ甘いかもしれないが、それはそれで、また同じ快感を味わえるチャンスがあるということだ。
コルクラボマンガ専科、ありがとう!!
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