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シャープさんさんの作品:「万が一」に苛まれ「もしかして」に支配される日に、さようなら。

みなさん正気を保っていますか、@SHARP_JP です。なんの因果か、この文章が掲載されるのがまさに2月14日、そうバレンタイン。おもに日本において、ヒューマンであるところのオスが自意識を知覚過敏にする日として広く知られています。知覚過敏はほとんどの場合、気のせいで終わることもまた、広く知られるところである。


一方で最近、バレンタインに対する世間の認識も変わりつつあるような気がしませんか。義理チョコをやめよう、というゴディバの広告が去年注目されたのも印象的だったし、今年は女性に向けたバレンタイン(という商戦)広告にさまざまな批判が寄せられたのを目にすると、たとえ恋愛といった普遍的な行為でも、そこにマーケティングの影がちらつけば、どうやらもう共感を得られない。ジェンダーな偏差のあるメッセージや企画なら、なおさら受け入れがたい時代になったというか、ようやくなりつつあると思ったりもします。


そういう傾向は、社会的な正しさという観点から有意義なのはもちろんだけど、毎年この日に自意識の知覚過敏を繰り返してきたわれわれにとっても、歓迎すべきことだとはいえないか。「万が一」という、文字どおりほぼゼロな可能性にさいなまれ、自分に向けられるすべての視線と会話に「もしかして」という検索結果が表示される1日から、ようやく自由になれるとしたら、その開放感はなかなかのものだろうと思う。


バレンタインデーのお話(仲曽良ハミ 著)


非モテチョコレートバイアス〜バレンタインの黒歴史〜(にしもとのりあき 著)


バレンタインからの開放感とか、お前はいったいなにを言っているのだと思う方は、このマンガを続けて読んでほしい。小学校の低学年から高学年、中学から高校、そして大人になるまで、ある一定層の男子は、連綿と2月14日という1日をこうやって自意識過剰に過ごしてきたのだ。思春期だからと片付ける人もいるけど、多感な時期をとうに過ぎた、いい年した大人だって内心は、バレンタインは知覚過敏。にしもとさんのマンガのように、肥大する自意識を隠せば隠すほど、われわれの強がる唇はピノキオみたく、とんがっていくのだ。


そしてまた人は、仲曽良ハミさんが描く小学生のように、選ばれない自分を救う方法を、案外たくさん持ち合わせていない。未熟な時は特に、私はそれを最初から欲望していなかった、というフェイクニュースを自分に刷り込むしかないのだ。だけど「万が一」と「もしかして」の呪いは存外に強くて、前年の「気のせいだった」という失敗は、なぜか反省されることなく繰り返されてしまう。


それを見栄といってしまうのはかんたんだ。けれど「選ばれなかったけどはじめから興味ねーし」という繰り返しは、見えない傷を自分に刻み続けることかもしれなくて、そういう自己肯定を遠くへ追いやる経験を、わざわざ同じ日に、みんないっせいに味わわされなくてもいいのにと、思うところはある。


選ばれたり選ばれなかったり、選んだり選ばなかったりは、生きる中でつきないことです。けれどそれはあくまで私と相手の間のことで、そのパーソナルな結果が可視化されてしまうのは、やっぱり少し残酷じゃないか。そういうことを、この2作を読んで笑いながらもふと考えてしまった。ぜんぶ、バレンタインのせいだ。チョコレートはいつだって、甘くて苦くておいしいよね。

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