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シャープさんさんの作品:自分を見てくる自分。似合う服がわからない話。

みなさんインフルだいじょうぶですか、@SHARP_JP です。たとえ予防接種をしていても、やっぱり戦々恐々としてしまいますよね。こんな時、自分がウイルスにだんだん包囲されていく光景をイメージしてしまう。ウイルスなんて目に見えないし、あくまでイメージですが。きょうはそういう、自分で自分をイメージする、自己を客観視する話をしたいのです。


主観の対極は客観です。自分が自分のまま、感じたり思ったりしたことを述べるのが主観なら、客観は自分を別の自分が眺めつつ、別の自分が自分を描写することだと言えるのかも。ここで仮に自己客観性という言葉を置けば、それは自分の主観、いわばファースト自分を、セカンド自分が観察して描写する、あるいはファースト自分を観察するセカンド自分を含めてサード自分が描写する、あるいはフォース自分やフィフス自分が現れて観察をはじめるといった、自我が3階建て、4階建てと高層化する構造にあると考えられないか。5階建てくらいになると発狂しそうだけど。


難しく言わずとも、自分を別の自分が見つめるというようなことは、だれでも日常的に行っている行為だと思うのですが、ここで私が問題にしたいのは、その「描写の仕方」です。たとえばいろいろ拗らせた私なぞ、自意識過剰ゆえの自己客観性増し増しな人間ですから、頼んでもいないのに自分を別の自分が観察しがちです。なんならフォース自分くらいまでが降臨し、日常のあらゆる局面で、右往左往する私の様子や心理をくどくど描写しやがるのですが、その描写はいつも「語り」として現れる。


会議で。パーティーで。買い物で。現実になんとか対処しようと奮闘する私の脳内は、別の私が私を描写する言葉で溢れかえる。恥をかかないように辻褄をあわせる私。場で浮かないふるまいを模索する私。いあわせた人の間の空気を乱さないよう取り繕う私。対人せざるをえないあらゆる局面で必死な私を、もうひとりの私やそのむこうにいる私が次々とテキストにしていく。私の行動や心理を実況するツイートと、そのツイートを引用するツイート、さらにツイートに対するエアリプで脳内TLがいっぱいになる、と言えばわかってもらえるだろうか。


そして語りによる自己客観性は、ある弊害をもたらす。自分がビジュアルで見えなくなるのだ。自分を別の自分が描写する時に、映像でもって客観できる人にはわからないと思うけど、自分を語りによって平面的にしか描写できない私は、文脈に詳しくなるばかりで、自分がいま他人にどう見えているのかがわからない。つまり自己を客観した末の「正解」がわからないのだ。


ところでこの弊害が致命傷になる時がある。それはファッション。TPOにあわせてなにを着るべきか、どういう意図でその服を選ぶのか、文脈としてのファッションはかろうじて理解できるものの、いつまでたっても自分に似合う服がわからない。自分をビジュアルで客観できないから。自意識過剰な人間にとって、これはなかなか致命的な問題だと思うのです。


それ聞く…?(ワタベヒツジ 著)


で、ですよ。この問題作です。ほんとにこれ、私も声を大にして言いたい。


…それ聞く?


たぶんこの先輩だって、憎からず思う後輩がいる飲み会だから、ここはほんのり清潔感を感じさせるカーディガンで行くべきだと、自分を客観視したはずなんですよ。場と文脈においては、ベストなソリューションを導き出していた。だけど。だけど、その服を着た自分がビジュアルでイメージできないんです。自分を客観する時の、別の自分がドローンじゃないんです。ツイッタラーなんです。だからその服の選択が文脈的に正しくとも、それが自分に似合うかが見えないのだ。そして色を致命的に間違ってしまう。私にはわかる。わかるぞ。


「なんでカーディガンその色にしたんですか」と残酷な質問をしたこの後輩のように、惜しいところでいちいち間違うわれわれのようなタイプがさっぱりわからないという人は、もう一度この文章をはじめから読んでください。わかるまでマンガを繰り返し読んで。頼む。お願いします。そしてなんか似合ってない服を見かけたら、写真に撮ってそっとLINEで送って。アドバイスといっしょに。

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2019/9/11 コミチ オリジナル
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