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シャープさんさんの作品:逃避を肯定するメッセージ

9月になりました、@SHARP_JP です。大人になると9月1日は残暑の続き、あるいは会計年度の折り返しといった、のっぺりした時間を指すにすぎない。せいぜい「夏も終わりか」とぜぇぜぇ嘆息を漏らすくらいの、瞬間的に風情を感じさせる日だろう。


しかし毎年、9月1日をほんとうに切実な気持ちで迎える人がいる。夏休みが終わり、学校へ行くという行為そのものに、心の底からの勇気を振り絞らなければいけない子どもたちだ。


8月の終わりに。あるいは9月の幕開けに。学校がつらい君へ、と呼びかけるメッセージがSNS上であちこちから発せられるのも、もはや風物詩のような気すらしてくる。その日に飛びかう「逃避したっていいんだよ」というメッセージには私も同意する。あまりに苛烈な場所からは逃げてもいいというサイン。朗らかな学校生活を送ったとは決して言えない私も、大人からそっと差し出される逃避の肯定に救われる子がいることはありありと想像できる。


だが同時に私は、大人からのメッセージがそれを切実に必要とする子たちへ届くことが容易でないとも思う。学校がつらい子どもは、その狭い社会への参加を余儀なくされるあまり、その過酷さから自分を守るために世界を閉じようとするだろう。もしそうなら、閉じゆく彼ら彼女らの世界では、世界の外に立つ私たちの呼びかけは聞こえないのではないか。だから毎年繰り返し、8月の終わりと9月のはじまりに、逃避を呼びかける大人の声だけが、セミのように響きわたるのではないか。


その虚しさに暗澹たる気持ちになる。



学校が恥ずかしかった私へ(コジママユコ 著)

このマンガを読めば、学校のしんどさや居場所のなさに、胸が締め付けられる人も多いだろう。自分のことを思い出して、いたたまれない気持ちになる人もいるかもしれない。だがこの作品はつらさだけでなく救いも描かれる。その救いはおそらく、3つある。


ひとつは、彼女が巣のような場所を学校の中に見出していたことだ。たとえ時限的でも、図書室は逃げる場所として機能したのだ。ふたつめ。彼女はその図書室で、これは私のことではないか、と思える書物に出会えた。他人が書いた物語の中で、自分に遭遇した。自分のことが描かれたと思える本によって、彼女は図書室から「居てもいい」という承認を差し出されたのだ。


そして3つめ。彼女は高校を卒業後、自分と同じ経験を持ち合わせた人と現実で出会う。その人の口から、自分がもてあましていた感覚をまったく過不足なく言い表され、はじめて安心感を抱いた。閉じゆく一方だった彼女の世界が、ようやく反転しはじめたのだ。


おそらく、学校が切実につらい子どもをほんとうに救うのは、大人の呼びかけではないのだろう。世界を閉じた子どもが、ふたたび世界を開くのは「私と同じ」人がいた、という体験なのだ。


「個人的」が別の「個人的」に遭遇しない限り、閉じられた世界は鎖にがんじがらめにされている。書物にしろ、社会にしろ、私が私に出会う時、ようやくつらさは解放されるのだ。そんなことを、この作品を読んで思った。そして私もようやく、私がかつての私に出会えたようで、いまさら少し、救われたのだ。

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