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シャープさんさんの作品:近眼人生

なりゆきで生きてきました、@SHARP_JPです。思えばむかしから「あれがしたい」とか「なにかになりたい」というような欲求や目標が希薄な人間だった。いまの仕事だって、学校の部活だって、はじまりはだれかが「やってみるかい?」と提示してくれたから、「じゃあやってみようかな」と重くも軽くもない腰を上げただけだ。


かつて相当の時間を費やした音楽もそうだった。自分の内なる衝動で駆動する行為でさえ、他人の「やってみるかい?」に乗っからせてもらって演奏したのがはじまりだ。そこに能動的な要素はなかった。私は表現という行為ですら、だれかに巻き込まれないと、はじめることができなかったのだ。


きっかけは受動的とはいえ、中にはそのあと自ら進んで夢中になったこともたくさんあるから、すべては偶然と言ってしまうのは違うと思う。だが「なりたい自分」を自分の未来の先に置き、そこに向かって行動する見通しを、私は立てられたためしがない。いつも目の前に置かれた一択におそるおそる乗り込むような、近眼な生き方をしてきた。


働く先の会社で「10年後のお前が望むキャリアを示せ」といった人事的な書類を前にするたび、なにを書けばいいかわからず立ちすくむ私は、いまも変わらず未来に対して近眼なのだろう。さいきんは乱視の症状まで自覚されてきて、自分の人生はいったいどうなるのか、空恐ろしくなったりもする。


それは「なにがしたいかわからない」とか「なりたい自分が見つからない」という現代的な悩みに似ているのかもしれないけど、私は私の人生の近視眼性を、それほど悪くないと思っている。なにより私には、後悔がない。欲求や目標が希薄なら、そもそも未来へのルートや分岐がない。後悔とは、選ばなかった方の分岐とその行く末を思うことだから、ルートや分岐がなければたいていの後悔は存在しえないのではないか。


そしてもうひとつ。近眼な人間は目の前のことにしか、為すすべがない。だからこそ歩みだけは、着実に進める。そしてある程度の時間が経てば、自分が思わぬ高みに立っていることも多いのだ。目の前のことに全力を尽くせと言えばとたんに説教くさくなるけど、気づけば自分が見晴らしのいい場所に立っていれば、さすがに私だって清々しさを感じる。近眼な人は未来の見晴らしは立てられなくても、振り返れば、過去の見晴らしはすばらしかったりするのだ。少なくとも私は、そういう経験を何度かしてきた。



思春期にやりたかったこと(妹尾さむし 著)

私が言うまでもないけど、思春期には後悔がつきものだ。駆け上がるように時間が進むあの時期は、やれなかったことが次々と転がり落ちていく。思春期は分岐を選ぶことすらできないまま、強制的に成長させられる残酷な時間だ。


だが不思議とこの作品では、その残酷さを感じなかったのはなぜだろう。マンガでは、思春期にやれなかったことを後悔するのではなく、いまも「それをやる自分」を空想することが好き、と語られる。そして最後のコマでは、無数の人が描かれる。


それが私には、無数の自分に思えたのだ。やれなかったことをやった自分の人生を空想すれば、無数の自分が立ちあらわれる。「それをやらなかった自分」を後悔するかぎり、そこにはいまの自分しかいない。だけど「それをやった自分」を空想すれば、いつだっていまの自分とは違うルートと分岐を歩んだ、もうひとりの自分が並走してくれるかもしれない。後悔でなく空想すること。それは、過去を見晴らしよくするための手段のひとつではないか。そう思えて、私は少し心強い気持ちになったのだ。

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