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シャープさんさんの作品:できるようになる自分は急にやってくる

たいていのことが苦手、@SHARP_JPです。生きていると「できるようになる瞬間」というものに出くわすことがあります。できるようになる主体は自分なのに「あ、いま私、できるようになった」と、客観的に把握できるような刹那。たとえば逆上がりができた時。ダンスが音楽に同期した時。スケボーが滑らかに動き出した時。あるいは操作性に難度があるゲームで、自由を手にした時。ある時間を訓練と試行錯誤に費やした先に突如あらわれる、なにかをできるようになる瞬間。


私もはじめて自転車に乗れるようになった瞬間をいまでもうっすら覚えているけれど、自分の中で歯車がカチリとかみ合うような、それでいて時間の流れがゆっくりになるような、あれはなんとも言えない感覚だった。


なにかを習得するための練習は、自分を緩やかに「できる」へ漸近させる。ゆっくり上達は進むものの、しかしゴールは唐突に訪れることが多い。着実に1段ずつ登った階段の先に「できる自分」はいそうなのに、実際は「できる自分」がぴょんと2段飛ばしで現れる。できる自分はできない自分の連続性の末にあるのではない。突如向こうからやってくるかたちで、私たちはできるようになるのだ。


そして向こうからやってきた自分という感覚は、自分なのにどこか自分と乖離した存在として、妙に客観的に知覚される。だからこそ、どんなにブランクがあっても自転車に乗れるように、私たちはあの感覚をずっと覚えていられるのではないか。


「できるようになった感覚」はスポーツでよく語られるから、なんとなく身体性を伴う行為に限った話に捉えてしまうけど、私はもう少し広い世界のできごとだと考えている。まったく読めなかった本をひさしぶりに開いてみたらすらすら読めるようになっていたり、嫌いだった食べ物がするすると喉を通るようになる経験はだれにでもあるだろう。苦手だった仕事の電話が、まったく緊張せずにできるようになった瞬間だって、カラオケで大きな声で歌えるようになった瞬間だって、私は「できる自分」が向こうからやってきたように感じるのだ。


だから、できるようになる瞬間は案外私たちの日常に偏在していて、その瞬間を客観的に把握することは、次のできる瞬間を捕まえるコツになるのではないか。苦手が多い私は、そう思うのです。



私とペンタブ(tokai著)

淡々とした独白と絵、そして強烈な比喩と思い出(ベンツの棒を折り身体中に刺すベンツマン…)に笑っているうちについ忘れそうになりますが、ここでもなにかができるようになることが、的確に表現されている。


私自身はペンタブというものを触ったことはないけれど、紙に描くのとは身体的にも視覚的にも異なる感覚が必要なのだということはわかる。「パソコンの画面を見ながら手を動かすの、難しすぎ」とあるように、手を動かして描かれるモノが手の先でない場所に見えるということは、漫画家さんにとってそうとうの慣れが必要なのだろう。


そして作者は「ひたすら丸を描いて練習すること数日…突然、本当に突然感覚が掴める」ようになる。めでたしめでたしの結末だけど、これこそが「できるようになる瞬間」だろう。練習の末に、描ける自分は唐突にやってくるのだ。


私もさいきん、突然感覚が掴めるようになったことがある。会議に出席しながら猛烈にツイートする技だ。数年に渡る訓練の末、私は仕事をしながらツイッターの仕事もできるようになった。ある日突然、感覚がつかめて、会議中もばりばりツイートできるようになったのだ。ツイ廃の私が突然、私のもとへやってきたのである。


それ以来、私はあらゆる仕事に並行してツイートしている。仕事中の私は、さぞかし身の入らない様子だろう。なにかができるようになった私は、なにかを失ったような気がしている。

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