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シャープさんさんの作品:喜怒哀楽には格差がある

ちょっと落ち着いて座りませんか、@SHARP_JPです。人間の感情には、喜怒哀楽の4種類あるとされています。実際は泣いたり笑ったり、怒りながら笑ったり、もう少し複雑だと思うけど。とにかく人間は4つの感情を時と場合により発露するのであれば、現在の私たちは、圧倒的に怒や哀に満ちているのだろう。それも世界中で。いかんともしがたいことがわれわれの生活を襲い、ニュースも、テレビも、SNSも、おそらく私信の手紙でさえも、怒りと哀しみに溢れている。


喜怒哀楽には強度がある。発せられた感情が周囲に作用する力を見れば、4つの感情ではその強さが異なるだろう。とりわけ怒や哀の影響力が段違いなことは、日ごろツイッターにいる人はよくわかるはずだ。怒りや哀しみはその強度ゆえ、喜びや楽しさよりも、より速くより広く伝わる。


つまり怒と哀は、ニュースなのだ。だからなにかきっかけがあれば、報道は怒と哀に占められ、われわれも容易に怒と哀という感情を受信し、怒と哀を帯びた発信をしてしまう。


だから「きょうもだれかが無事に過ごしました」という穏やかなできごとはニュースにはならないけれど、「きょうもまただれかが無事にいられなかった」という悲しい事実はニュースになる。変化は不変に対して、それ自体がドラマティックなわけで、どうしたって耳目を集めてしまう。そうしてわれわれの社会は、楽しいことやうれしいことより、怒りや哀しみの方が、知るに足る価値があるということになるのだろう。


そしてあっというまに、私たちの生活は不安に下支えされ、さらに怒りや哀しみが増幅されていく。もちろん怒りや哀しみは社会の不正確や不公平を正す原動力になりえるから、とても大切なものだけど、私たちが落ち着いてじっくり考えることを許さない。いつも「ふつう」は異常より弱々しくて、日常は非常に太刀打ちできないのだ。


メディアの見方を変えてみようと思った話(小柳かおり著)

だからこういう人は多いと思う。私もそうだ。不安に抗うには「まずは知ること」なんてよく言われるけど、知れば知るほどそこにあるのが怒や哀に満ちているから、知れば知るほど私は不安になる。悪いことが起きたのはゆるぎない事実なのだから、その事実の時系列な変遷と見通しを知りたいのに、私の目や耳は「きのう起こった最悪なこと」ばかりを集めてしまう。


たぶん、人間の知覚や私たちの暮らす社会は、どうしようもなくそういうものなのだ。そしてそういうものならば、われわれは「そういうものだ」という認識をようやく手にして、異常や非常に弱々しく立ち向かうしかないのだろう。


ある曲を説明する時、たいていの人はサビを口ずさむ。Bメロや間奏部分を再現する人はまれだ。その曲がその曲である象徴はもちろんサビにあるのだけれど、曲はサビだけで奏でられるものではない。音楽は決して、耳の注意を引くような派手な要素だけで構成されているわけではないのだ。生活も同じだろう。私たちの生活は、強い感情が喚起されるシーンだけで構成されるものではない。のっぺりした、だけど落ち着いた時間こそ、私たちが生きるに必要な「ふつう」なのだと思う。


だからみんな、せめてSNSだけは、もっと喜と楽を臆せず発信しようよ。自分の周囲に喜と楽を増やして、メディアの怒と哀に立ち向かうのも、ひとつの手段だと思うのです。

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