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シャープさんさんの作品:コピーライターとコンプライアンスの囚人

耳障りがかっこいい言葉には気をつけろ、@SHARP_JPです。いまからコンプライアンスについて語ろうと思う。あらゆる企業活動において、いまや当然遵守すべき事項、コンプライアンス。しかし同時に、公式アカウントや広告といったワードがつく仕事に従事する者にとって、腫れ物に触るような、センシティブなワードでもある。


コンプライアンスという語が使われだして、どれくらいの時間が経過しただろう。会社の研修や会議の資料で目にするようになって10年ほどだろうか。いまやすっかり定着した。コンプラなんて略され方で、ビジネス用語を超え、ネットでもツイッターでもひんぱんに見かける。


「コンプラはだいじょうぶなのか」


私や私と同じような仕事に関わる人にとっては、あまりに投げかけられすぎて、「はい、たぶん」と息をするように打ち返す言葉かもしれない。私もツイートや広告の企画を考える上で何度、社内で問われたことだろう。だが正直なところ、あなた方が威厳をこめて問うような「だいじょうぶか」は、やってみないとわからないのだ。


コンプラとは意味が多様だ。使われるうちに、その語がカバーする範囲が多様になったと言った方が正確かもしれない。おそらくはじめのコンプライアンスは「企業が法令や規則をちゃんと守ること」の意だったはずだ。しかしワードが普及するにつれ、「法律として明文化されていないけど、社会的なルールとして認識されているようなルールにも従って、企業の活動や発信を行え」と、意義が拡大していった気がする。


そしてその「法律ではないけど社会のルールとして認識されているルール」がやっかいなところなのだ。どこにも書いてないが、空気のように存在するルール。社会のだれが認識するかによって見え方が変わるルール。常識に従えというのはかんたんだけど、注意深く見ると、いつだって常識はグラデーションを描いている。さらにいえば、去年の常識と今年の常識がすっかり様変わりすることさえ、いまのわれわれなら身を以て知っていることだろう。


広告にしろツイートにしろ、自分(自社)の言い分を社会に投げかける仕事は、どうしたって「常識」に抵触しないわけにはいかない。しかしその常識は玉虫色。だれかにとっての常識は別のだれかにとっての非常識ということは、じゅうぶんありえる。常識と非常識は両立しているのだ。


だから結局、やってみないとわからない。やる側があらかじめ「問題なし」と証明ができない、懸念する側がマウンティングをとり続ける構造。やる側にとっては限りなく心もとない、つくづく働きにくい世界だと思う。


コンプラに囚われて判断力を失った編集者(小山コータロー著)

で、そんな世界で仕事をしていると、このマンガのようになる。すべてが疑心暗鬼になり、だれが敵でだれが味方かもわからなくなる。というか、自分がなにを言いたかったのかすら、よくわからなくなってくる。


人は、やってみなければわからないことについて、やる前に結果を示せと強いられ続けたらどうなるか。もうめんどくさいからやらない方がマシと、みんながみんな、諦めていく。


だからこのマンガ、私は笑いたいのに笑えないのだ。同業者のみなさんも読んでほしい。そしてきょうもどこかの会社で「コンプラはだいじょうぶなのか」とよく考えず指摘するだけの、一般的に偉い立場にいる人たち。あなた方はこれを読んで笑うのは許さないぞ。

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