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シャープさんさんの作品:見る喜び。聞く喜び。

沼にはまり続ける人生、@SHARP_JPです。人を好きになるのに理由なんてないとはよく聞くフレーズですし、それについて私も特に異論はない。対象が人に限らずとも、なにかを好きになる場合、それはもう、先に好きになっているのであって、なぜ好きになったのかはたいてい後から知覚される。だから本来、好きになるのに理由がないわけではないけど、その理由は現象より遅れてやってくるから、上記のようなフレーズが普及するのでしょう。それは遠くで稲妻が走る時、音が遅れてやってくることにもどこか似ている。そういえば、人はなにかを急に好きになる時、雷に打たれた、と例えることがある。


ただ自分のことを振り返ってみても、いったいぜんたい、なぜこれを好きになったのか皆目見当がつかない場合もある。たとえば私は、回る洗濯機を見るのがたまらなく好きだ。それがなぜなのか、ずっと考え続けているのだけど、しっくりくる理由が見つからない。わかったのは、世界には同じ趣味の人が案外多いということだけだ。以前なにげなく洗濯機が回る様子を見るのが好きとツイートしたら、おどろくほどたくさんの人が「同じく」と手を挙げたのだった。


理由はよくわからないまま、しかし同じ事象を好む人がこれほどいるのを知るにつけ、いまや私は「理由はないがそれを見ること自体に喜びや楽しみをもたらすモノゴトがある」と考えるようになった。それは視覚的快楽とも呼ぶべきもので、見ることを通して入力された感覚そのものが愉悦になるのだ。おそらく視覚に限らず、聴覚的快楽や味覚的快楽というものもあるだろう。


ただ知覚そのものが楽しい。解釈を伴わない、その原始的な愉悦はひょっとしたら、自他の区別があいまいだった幼いころの名残なのかもしれなくて、だからこそ私たちは大人になると、事あるごとにそれを懐かしんでいるようにも思えてくる。なにかに疲れきった時は、幼い頃の愉悦にすがりたくて、私は回るドラム式洗濯機を眺めているのかもしれない。


思い出をくすぐるもの(縹 ゆり著)


この作品も一種の感覚的快楽に言及しているのだろう。ウォーターサーバーから水を注ぐ時の、ゴボリゴボリという低い音。底からコロコロと湧き上がる気泡。あれも確かに、目に、耳にするだけで愉悦がある。台所やオフィスの片隅。水を汲もうとウォーターサーバーの前に立つ時はなぜかいつもひとりで少し静かで、あの音が際立って聞こえる。自分の身体に取り入れる予定の水はタンクから失われ、その体積の不在分が重力に逆らい上昇するクリアな泡として眼に映る。


このマンガでは、平面的で不思議なタッチの絵で、ウォーターサーバーの音と泡を知覚する愉悦の原点を探ろうとする。潜った記憶の先は、幼いころのプール。作者にとって水を注ぐことは、記憶を手繰り寄せることでもあって、われわれに静かで美しい読後感をもたらす。


私たちは五感を通して得られた情報をもとに、絶えず周囲の世界を分析している。しかし時には五感の情報が、まだ世界を分析する必要のなかった、過去の私を呼び起こすことがある。それは世界に対峙し続ける束の間の息抜きのように作用して、だから私はドラム式洗濯機が回るのを見ると、心が落ち着くのかもしれない。


そういえば、加湿空気清浄機がタンクから水を取り込む時のゴキュッゴキュッという音も、そうとうな聴覚的快楽があると思いませんか。あれも私は好きです。


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2019/11/14 コミチ オリジナル
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