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シャープさんさんの作品:罵倒と賞賛のアンバランスな世界。

私だって人並みに好き嫌いはあります。@SHARP_JP です。ちょっと語弊があることを言いますが、この世には褒め言葉のバリエーションが少ないと思いませんか。大人や子どものケンカを見渡してみても、あるいはツイッターを巡回してみても、その行為の是非は別にして、よくもまあこんなに多様な表現があるものだと、罵倒の言葉の数々に感心してしまいそうになる。悲しいことに、人はなにかを貶める時にこそ、クリエイティブになるのかもしれない。悪口はつい、舌が滑らかになる。自戒を込めてそう思うことがある。


それに比べて、褒める場合はどうか。私たちはなにかに対して、たとえどんなに感極まったとしても、よかった、最高だった、好き、待って無理と叫び、それに続けてせいぜい、尊いと呻くだけではないか。もちろんそこに込められた気持ちに偽りがあるわけではなく、ただただ褒める方面の語彙をわれわれがあまり持ち得ていないせいだろう。だがそれにしたって、私たちは己の昂りを、もう少し豊かに言い表せるようになれたらとは思う。


一方で世の中には必要に迫られ、褒め言葉を捻出する場合もあるだろう。たとえば広告。全米が泣いた、なんていう褒め言葉を額面どおりに信じる人がどれほどいるか。史上最高画質と謳われて、そのテレビに長期的な信頼を寄せる消費者はどこにいるか。あるいは音楽の評や本の帯に踊る「魂」の文字。または勇気をもらった、元気をもらった、人生が変わったというフレーズ。そこには嘘とは言わないまでも、そうかんたんに騙されないぞという、心の強張りを覚える人は私だけではないはずだ。


とにかく褒めろというミッションの前に、それを仕事にする人は思考を停止して使い回しの言葉を繰り返し、その言葉を受け取る人もうんざりしつつ、無視を決め込んだ。そうやってわれわれは、褒める語彙を豊かにすることを諦めてきたのかもしれない。褒めるという行為がビジネスに侵食されるあまり、褒め表現に不感症になってしまった。本来ポジティブな行為であったはずが、嫌悪感すら催すようになった。昨今のステマ問題を見ていても、ついそういう風に考えてしまう。


逆にもっと褒め方や褒め言葉に多様性と自由があれば、#PR 表記をつけずとも、それが当事者の言葉なのか、お仕着せの言葉なのか、容易に判明できるようになり、ステマは駆逐されるような気すらしてくる。そんなことは言っても仕方ないことだけど。


コメントシート(秋野ひろ 著)


褒め言葉の少なさがもたらす弊害は、このマンガにも底流しているように私は思うのです。たしかに名画というものに対して、その褒め表現のバリエーションはあまりない気がする。もちろん美術や美学の専門的な分野では、作品を評する多様な表現が蓄積されてきたのだろうけど、一般に教養というフォルダに入れられるような、有名な芸術作品に対して私たちが語れる言葉はおどろくほど少ない。だからこそ作中に出てくる「絵が語りかけてくるようだ」とか「作者の感情が込められて」「心が揺さぶられる」という表現は、美術に疎い人でもどこかで聞いたことがあるようなクリシェとして、馴染みがあるだろう。


褒め表現にバリエーションがないということは、必然的に同じような感想が並ぶことになる。だからもしそれ以外の感情を持ってしまった人がいれば、疎外感や負い目を感じてしまうかもしれない。多様性がない場所では「それ以外」という感情はひとりぼっちだ。私と同じような人がいる可能性を消された世界。そんな疎外感を持ちながらも芸術を志す人が、この作品で描かれている。


語れる言葉の選択肢が少ないと、人は怯んでしまう。本来いいことしかないはずの褒めるという行為の前でも、人は案外硬直してしまうのだ。そうして褒める世界が狭くなっていく。考えるほどに空恐ろしいことだが、ここでは先生の言葉が救いをもたらす。


「他人と同じ感想を抱けなかったことで、悩む必要は全く無い」


たぶんそういう開き直りから、言葉のバリエーションは育まれていくのでしょう。その先にやっと、罵倒より豊かな褒めの世界があるのだと思う。だからみんなもっと開き直って、自分の好きを褒めていこうよ。それが自分の言葉であればあるほど、尊いものになるはずだから。

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2019/11/7 コミチ オリジナル
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