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シャープさんさんの作品:ひたむきとむき出し。

言うまでもないことかもしれませんが運動はからっきし、 @SHARP_JP です。たぶん私は、運動の経験値が人より圧倒的に少ない。だからスポーツの種類や種目の得手不得手を語る前に、そもそも身体の動かし方がいまだ把握できていない気がする。スポーツどころか、日常のあらゆる面でフィジカルが覚束ない。とにかく不器用なのだ。


運動の経験値が圧倒的に少ない理由は、もとより私が内向的な気質のせいもあるけど、部活というものへの縁のなさにも由来している。中学も高校も運動部に形式的な所属はしたことがあったものの、だいたい部活に熱心な学校でもなかったため、行きたくない時は行かないという放漫部員で過ごした。しかも形式的な所属が可能な部を選んでいたわけだから、原則行かないというふざけた態度もまかり通ったわけである。


ちなみにテニス部だった。メンバーがそろわないと成立しない競技と違って、1対1あるいは2対2でやるスポーツだから、人員が欠けるということに無頓着だったのかもしれない。そうして私はのびのびと部活を休んだ。休んだ先で、私は私なりに個人的な経験値を重ねるのだけど、運動あるいは部活の経験を積む機会は、ここで決定的に失われたわけだ。


その分岐に後悔はないが、大人になって「行かない」という選択ができない運動の機会(会社対抗野球大会とか)で醜態を晒した日、あるいはただ歩いているのにつまずき、透明な自動ドアにぶつかりそうになった時、おのれの身体感覚の不器用さをほとほと痛感する。


そしてもうひとつ、私の運動経験のなさを実感する時がある。運動部を舞台に描かれる、爽やかな恋愛模様にまったくピンとこないのだ。たとえば映画や漫画で繰り広げられる、ライバルの間で揺れる気持ち。あるいは清涼飲料水やデオドラント製品のコマーシャルで描かれる、あこがれの先輩ががんばる姿を応援するシーン。そういうものにまったくリアリティを感じられない。運動音痴ならまだしも、心的にまでつくづく音痴な人間だと思えてきて、さすがに悲しくもなる。


陸上部。(猫田まんじまる 著)


だからこの作品を読んで救われました。部活の恋模様、ぜんぜん爽やかでなかった。がんばる姿は、いつでも美しいわけでもなかった。


槍や砲丸を投げる時のうおりゃーという絶叫。年頃の子にとって、好きな人の前でただ物体を遠くに飛ばすために絶叫するのは、恥ずかしい以外の何物でもない。ましてやその絶叫に論理的な意味が与えられず、ただ義務や儀式として絶叫を科せられるのならば、やるせなさは増す一方だ。


記録や勝利、あるいは身体パフォーマンスを伸ばすことが部活や運動の目標だから、それに向けてひたむきにがんばる姿はだれだって尊い。だけどそのひたむきさは同時に自分のむき出しにも違いなくて、自分を少しでもよく見せたい恋愛中の自意識から見れば、そのむき出しはできるかぎり隠しておきたいものだろう。


ありのままをすべて見せろというのが運動部の原則だとしたら、ありのままなんて怖くて見せられない恋愛中の部員は、ずっと引き裂かれたままだ。好きな人が同じ部活にいるならなおさら、絶叫に悲痛さがつきまとう。


そう考えると作品の最後、同じ陸上部の彼氏は主人公の引き裂かれた状態をありありと汲めるからこそ、あいまいな拍手で応じたのではないか。同じ境遇を共有しているからこそ、空疎な音がふたりの間に鳴り響いたのだろう。その音に私は、ドラマやCMで見かけるキレイな部活の爽やかさより、ずっと親近感を感じるのです。


引き裂かれながらがんばる人に、幸あれ。

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