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シャープさんさんの作品:摂取ライフ

書いたそばから忘れていきます、@SHARP_JPです。ご趣味は?と聞かれて困ることが多い。もっぱらインドア育ちではあるが、無趣味というわけではない。好きなものはそれなりにある。


ただ私は、趣味は映画鑑賞ですなどときっぱり答えられるほど、楽しむ対象を明確にできないのだ。たぶんコンテンツの形態にこだわりがないのだろう。強いて言えば「だれかのなにかの表現を摂取するのがたのしい」という、なんだか茫洋な好きのあり方になってしまう。


音楽でも漫画でも絵画でも、小説でも映画でもアニメでも、あるいは料理でも洋服でもつぶやきでも、私は他人のはっとするような表現に遭遇すると喜びを感じる。だからといって、摂取する表現を限定して行動することはない。劇場や店に通いつめるとか、特定のなにかを収集するとか、推しの推しに精進するとか、そういうことはめったにないのだ。どちらかというと流されるまま、偶然に任せるままに、ノーガードで表現に出会いたいから、あえて消極的な姿勢を選ぶ傾向すらある。


だからご趣味は?と聞かれると、はたして「表現とその摂取です」と答えていいものか、心もとない気持ちになり、私は口ごもってしまうのだ。そして、広く浅く散らばった己の趣味の残骸を、深く洞察に満ちた友人のコレクションと比べて、自己嫌悪に陥ったりもする。


ただし、とっ散らかった私の「好き」にもそれなりの一貫性はある。つまるところ私は、だれかの表現を摂取した後の自分がどう感じ、どう考えたかを観察するのが好きなのだ。こう言うと、私が自己愛強めのナルシストと決めつけられるかもしれないけど、そうではない(と思う)。私は、他人の表現に触れて変化する自分に、一貫して興味を持ち続けているのだ。


私はいつも私の中を覗き込む。他人の表現に触れた私を覗き込む。私は、だれかの表現に影響を受けて、さっきまでの私とはちがってしまった私を見るのが好きだ。それが私の趣味である。まったくもってややこしい趣味にはちがいない。



「自分が分からなくなったとき、本を読みまくったら抜け出せた話。」(望月哲門 著) 

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でもこのマンガを読めば、そのややこしさは解消されるかもしれない。いやむしろ、他者の表現を通して自分を見つめることについて、ほんとうにわかりやすく語られている。読書は他者を知ることであり、同時に自分の中に他者を見出すことなのだ。


とりまく世界の外圧に立ち向かうことに疲弊した主人公は、ある日心が動かなくなってしまう。自分が抜け殻になる危機を前に、世界と立ち向かうことをすべて放棄した彼は、本だけを読むことにした。ここでいう本とは、ビジネス書でもなく自己啓発本でもなく、小説であることがポイントだ。彼は「だれか他人の表現のみを摂取」することにしたのだ。


そこから語られる彼の身に起こった変化は、読書に耽溺した人、本に救われた人なら自分のことのように振り返ることができるかもしれない。物語の中に身を置き、物語の中のだれかを知る。小説の作者による表現を通して、読者は他人の時間を経験する。小説を読むという行為は、自分の中に他人を招き入れることなのだろう。他者の表現に触れて自分の心が動く。動いた先の自分はもう、さっきまでの自分とは少しちがう自分になっている。過去の私とは地続きだけど、いまの私は少しだけ他人だ。


自分の中に親密な他人を飼うこと。自分を気のおけない他人のように見つめることが、自分を回復させる。それを経験的に知る人は、また他人の表現に向きあう。かつて読書が好きだったマンガの彼も、それを知っていた。だから彼は自分の危機を前に、ふたたび表現をむさぼるように摂取する選択をしたのだろう。


そう思いながらマンガを読んだ私も、かつてだれかの表現に救われた人間であり、自分の中に他者を飼うことでしか、世界を生き抜くことができない難儀な人間だ。だけどいまは絶望することはない。表現を摂取した人は、いつか表現する側にまわる。表現に救われた人は、いつかきっと表現に恩返しするのだ。いまもどこかで、私と同じような人が自分を覗き込み、日夜表現を繰り返していることを私は知っている。心配することはない、世界は自分を回復させる表現にあふれているのだ。

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