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シャープさんさんの作品:お前はここにいてもよい、という怒涛の承認。祖母と孫の話。

私事ながら、この文章は祖母の葬儀の翌日に書いている。遠方に暮らしていたということもあって、大人になってからの私は、ひんぱんに祖母へ顔を見せるような、殊勝な孫ではありませんでした。その点について、きのうからずっと頭の中で詫びの言葉を繰り返している。


一般におばあちゃん、あるいはおじいちゃんと孫といえば、「なんでこんなにかわいいのかよ」という歌があるように、溺愛という言葉がぴったりの、ほほえましい関係が想像されるでしょう。彼女にとっては初孫だったこともあって、例外なく私も、目に入れても痛くないという溺愛を受けたようだ。


もちろん幼い頃の記憶はしばしば書き換えられるし、いともかんたんに忘れてしまう。私も遠い昔の溺愛された記憶は、悲しいくらいディティールをとどめないけど、大人になるとその分、ぼんやりとした思い出の輪郭や手触りが、自分にとってどういう意味だったのか、よくわかるようになる。


私にとって、祖母からの溺愛は「お前はここにいてもよい」という怒涛の承認だった。右も左もわからず世界に放り出された私が、親以外の存在に肯定されること。家とは別の場所で、自分の居場所を与えてもらうこと。そのはじめての経験が祖母からの溺愛だったのではないかと、あれからずいぶん年をくった孫はようやく理解できる。少なくとも私は、その溺愛(されたという手触り)がなければ、ここまで生きるのにもっとずっと、しんどさがつきまとっただろう。


そういうことを、祖母の美しい遺影(文字どおり私の祖母はけっこう美人だった)に手を合わせながら、言い訳がましく思ったのでした。


変わらないもの(ボブっ子ボブ 著)


そんな私が、いささか不謹慎な言い方だけど、タイムリーに出会ったのがこの作品です。祖母と孫のお話。自由に出かけることがかなわなくなった老いた祖母に、グーグルマップを見せる孫。見せているのはたぶん祖母が生まれ育った土地でしょう。だが期せずして、グーグルマップは祖母の記憶からすっかり変貌した様子を見せてしまう。街並みが変わることはありふれたことかもしれないけど、その変化に並走できない人はいる。時にテクノロジーが残酷さを突きつけてしまう瞬間だ。


だけど孫は、その残酷なテクノロジーを再び使って、変わらない景色を探す。機転を利かせて探し出したのは、その土地の神社だった。祖母の記憶と寸分変わらない場所は、祖母がかつて諦めた記憶をしまいこんでいた場所でもあって、モニター越しの神社はもう会えない人の存在を引き出してしまう。


「もう二度と会えんかと思っとった」人とは、おそらく死者だ。だけど祖母にとって、もう二度と会えないと諦めていた理由は、その人が死んだからではない。その人がいた場所へ、自分が赴くことができなくなったからだ。だから、モニター越しに機械的に映された、諦めた時から変わらない場所を見た瞬間、その諦めは容易に解凍される。


月並みな言い方かもしれないけど、死んだ人はだれかの記憶の中で生き続ける。しかしその記憶さえ、不変ではない。だからこそ私たちは死者の記憶を、確かにそこにあり続けそうな場所やモノに結びつけるのかもしれない。私にとってのそれは、母の実家へいたる急な坂道だ。これからあの坂は、私が私の祖母を思い出す場所になる。


自分の記憶のうつろいやすさを棚に上げ、はなはだ都合のいいことだと思うけど、どうかあの坂道は変わることなく、あの場所にあってほしい。孫は勝手ながらそう願うのです。おばあちゃん、また会いましょう。


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